当研究会の概要

団体名 構造化知識研究センター・昭和世相研究所
代表者 戸川利郎
住所 東京都港区麻布十番一丁目2-7ラフィネ麻布十番 7F
会員数 20人
発足年 1992年(平成4年)
連絡先

昭和天皇の製造業現場・工場視察の軌跡

昭和天皇はご即位以来、民情視察のためたびたび全国各地を巡幸された。

なかでも民間企業などの工場視察は、その時代の基幹的産業や有力企業を対象に行われたことが多く、天皇巡幸の軌跡は図らずも日本の産業・経済史そのものになっている。

戦前

明治の開国以来、繊維産業を中心に発展してきた日本経済は、日露戦争、第1次世界大戦を経て造船、機械、化学など重化学工業の比重が徐々に高まっていった。

昭和初期にはこうした動きがいよいよ顕著になり、昭和天皇の工場視察も繊維と重化学工業が中心だった。

なかでも目立つのは、航空機や造船などいわゆる軍需産業への度重なる視察である。

昭和2年(1927年)11月、愛知県下での陸軍特別大演習に出席されたのを機に、天皇は産業奨励の目的で三菱重工業の名古屋航空機製作所(当時、三菱内燃機名古屋製作所)を視察された。

三菱重工は名機といわれる「零戦」など戦闘機をはじめ数々の軍用機を生産したほか、昭和18年(1943年)6月に天皇が極秘で乗船視察された戦艦「武蔵」を建造した代表的な軍需産業である。

昭和9年(1934年)11月にも、やはり軍用機を作っていた中島飛行機(現在の富士重工業)の新設間もない太田工場を訪問されている。

昭和4年(1929年)6月の関西行幸の際、立ち寄られた住友金属工業(当時、住友伸銅鋼管)の桜島工場には、お召し艦「長門」で大阪港に入港されたあと、駆逐艦「灘風」で上陸された。

各種の機械部品や金属製品を視察されたほか、高温の溶鉱炉の内部状況までお調べになったという。

また、「従業員の福利施設にも深い関心を示された」と、当時の記録は伝えている。

とはいえ、この工場も軍艦用のスクリュー軸など各種軍用部品を生産する軍需工場の1つだった。

昭和初期には、鈴木商店や台湾銀行の破たん(昭和2年(1927年))、米、生糸などの大暴落(昭和5年(1930年))など恐慌が日本経済を揺るがし、さらに満州事変(昭和6年(1931年))を契機に戦争経済へと突っ込んでいった。

昭和7年(1932年)には、陸軍が軍用自動車の生産を奨励するため補助金を出すようになり、昭和8年(1933年)には補助金付きでディーゼルエンジンを備えた高速貨物船を建造する船舶改善助成計画がスタートした。

昭和9年(1934年)には八幡製鉄所と製鉄5社が合同して日本製鉄を創設したほか、政府の保護を強化した石油業法が成立するなど、次第に産業に対する国の統制色が強まっていった。

この時期、軍需工場以外で昭和天皇が視察された主な工場には繊維工場がある。

昭和4年(1929年)6月のユニチカ(当時、大日本紡績)平野工場、昭和10年(1935年)11月の旭化成(当時、日本窒素肥料)の延岡工場などだ。

当時は重化学工業が急速な発展の時期に差しかかっていたとはいえ、繊維産業はなお中心産業の地位を保っており、昭和6年(1931年)から昭和11年(1936年)にかけて綿織物は5割近くも増えていた。

また、人絹はこの間に約3倍も生産が増えた。

これは第1次大戦ごろ開発された人絹の生産技術がこのころようやく完成したためで、昭和11年(1936年)には日本が人絹生産で世界トップに躍り出た。

戦前の昭和天皇の巡幸の際の服装は、すべて軍服姿だった。

日本経済の重化学工業化路線が、軍需に支えられて進んでいったことを象徴するかのようである。

終戦直後

戦災の傷跡も生々しい終戦直後から、「人間」天皇の全国巡幸は始まった。

各地の訪問先で昭和天皇は戦災の痛手から懸命に立ち直ろうとする国民に温かい励ましの言葉をかけられたが、工場視察は基幹産業として復興が急がれる素材産業が中心となった。

戦後のご視察第1号は昭和電工川崎工場だった。

戦時中は化学肥料の生産では、東日本で最も大きな工場だった。

原料のアンモニアは爆薬の原料にもなるので、軍部と農林省が奪い合いをすることもあったという。

この、“軍需工場”も、終戦までの数回にわたる空襲ですっかり壊滅状態になったが、従業員の懸命の復興作業で昭和20年(1945年)暮れには出荷を再開できた。

これが「日本の復興第1弾」として、新聞に大きく取り上げられ、戦後初の行幸につながった。

工場を視察された天皇は、作業服姿の従業員に「戦災にあったか」「家族は無事か」「生活は苦しいか」「給料はきちんともらっているか」などと質問され、この様子はラジオで全国に放送された。

当時、川崎工場長だった渡瀬完三・昭和電工名誉顧問(当時88歳)は「あの全国巡幸が日本中の工場従業員をどれだけ励ましたことか。われわれ一同も感激して『よし、やるぞ』と奮い立った」という。

復興の大きな原動力になったのは、昭和21年(1946年)から始まった傾斜生産方式だった。

あらゆる資材や労働力を石炭と鉄鋼の生産増加に集中する政策だが、天皇も各地の炭鉱や鉄鋼工場を数多くご覧になった。

また、多くの紡績工場を訪れ、女子工員に直接声をかけ励まされた。

昭和24年(1949年)の三井・三池炭鉱のご視察では地下600メートルの坑道までもぐられた。

当時の三池炭鉱労組組合長で元参院議員の阿具根登氏は、「天皇は坑内へ入られる時、少し緊張されていた。その時、カメラマンの1人がレールに足を滑らせて転んだため、天皇は苦笑され、緊張が一気に解けた」とエピソードを語る。

昭和29年(1954年)の新日本製鉄(当時の富士製鉄)室蘭製鉄所では、45度近い高熱の作業現場をご覧になった天皇が従業員の健康を気遣われ、案内の会社側幹部を感激させた。

また、戦後の民主的労働運動にも理解を示され、住友電気工業や三菱重工業などでは労組幹部に「組合の健全な発展を祈ります」などと激励された。

昭和電工では昭和20年(1945年)暮れには労組創立の動きが激しくなっていた。しかし、天皇をお迎えするというので、労使が話し合った結果、労組結成は巡幸の翌日になった。

また、島津製作所では巡幸の直前まで従業員の賃上げストライキが続いていたが、前夜にスト中止となった。

こうしたエピソードからも、労使を超えて国民からの敬愛を集められた昭和天皇のお姿がしのばれる。

高度成長期

「もはや戦後ではない」--昭和31年(1956年)7月に発表された経済白書は、日本経済が戦後復興期を終えて新たな成長期に突入したことを高らかに宣言した。

事実、昭和30年代から40年代にかけて、日本経済は驚異的な高度成長を実現した。

中でも、けん引車的役割を果たしたのが「三種の神器」「3C時代」に代表される電機、自動車産業だった。

昭和31年(1956年)11月1日、昭和天皇は皇后とご一緒に松下電器の高槻工場を視察された。

工場内でご自身の姿がテレビに映し出されたのをご覧になって、思わず笑い声をあげられたという。

さらに、松下電器工場の永年勤続者に対して「このように立派な会社で永年勤続されてまことにご苦労さまです。重要な産業ですから今後も一層努力されるよう望みます」とのお言葉をかけられた。

電機、自動車の両産業は関連分野のすそ野が広く、鉄、アルミ、紙・パルプ、化学などさまざまな業種の成長に大きく貢献した。

同時に、こうした産業群を支える石油、電力などエネルギー産業も重要な役割を果たした。

こうした経済情勢を背景に、日本経済は、神武景気(昭和30年(1955年)上期-昭和32年(1957年)上期)、岩戸景気(昭和33年(1958年)下期-昭和36年(1961年)下期)、いざなぎ景気(昭和40年(1965年)下期-昭和45年(1970年)上期)などを現出。

さらに、昭和35年(1960年)12月には第2次池田内閣が国民所得倍増計画を打ち出し、昭和39年(1964年)10月には東海道新幹線の開通、東京オリンピック開催--など高度成長ぶりはとどまることを知らなかった。

天皇の視察もこうした事情を反映して、勢い幅広い業種にわたった。

その際には必ず、専門的な質問と共に「今後ともしっかりがんばって下さい」という温かい励ましのお言葉をお忘れになることはなかった、と関係者は口をそろえていう。

昭和36年(1961年)5月26日、王子製紙の栗山材木育種研究所を訪問された天皇は「材木の育種は一代雑種が主目的ですか?」「イタリアのポプラは北海道の気象にはどうですか?」など専門的な質問を連発されて、案内役を感激させた。

昭和30年(1955年)11月11日に完成して間もない日本セメントの埼玉工場を視察された時も「微粉炭はなぜ燃焼するのか」など熱心に質問されている。

しかし、頻繁な企業視察の中には、こんなアクシデントが起きることもあった。

昭和37年(1962年)3月29日、昭和天皇は皇后とご一緒にソニーの本社工場にお立ち寄りになった。

テープレコーダーとマイクロテレビの製造の視察が目的だったのだが、開発中のマイクロテレビの前で井深大名誉会長、盛田昭夫会長が「これはまだ世の中に出ていませんから……」と申し上げたところ、週刊誌が「天皇口止め事件」としてこれを取り上げ大騒ぎになった。

この時のマイクロテレビが、「世界最小・最軽量のマイクロテレビ」として翌月の昭和37年4月17日に発表されたTV5-303だった。

このころから日本は、将来の技術立国化に向けて着実に歩み始めていたのである。

ハイテク期

昭和48年(1973年)秋の第1次石油危機は、無資源国・日本に深刻な打撃を与えた。

狂乱物価、買い占め・売り惜しみなど国民生活にも大きな影響を及ぼし、昭和49年(1974年)度にはついに戦後初のマイナス成長を記録するという事態にまで陥った。

興人、永大産業などの大型倒産が相次ぎ、高度成長に酔いしれていた日本経済は一転、厳しい局面に立たされることになった。

しかし、昭和48年(1973年)、昭和54年(1979年)の2度にわたる石油危機は、同時に、技術革新によるハイテク立国を目指す以外に今後の進路はない、という確信を植えつけることにもなった。

そして、現在、日本は世界に冠たるハイテク大国として米欧諸国としのぎを削り合っている。

昭和天皇の視察も、こうしたハイテク産業に集中するようになり、半導体、VTR、セラミックス、最新鋭自動車、高度精密医療機器などを前に感嘆の声をあげられた。

昭和59年(1984年)5月21日、天皇は鹿児島県で行われた第30回全国植樹祭へのご出席の機を利用されて、京セラ、ソニー両社の国分工場にそれぞれ立ち寄られた。

京セラ・国分工場では、セラミックス製の包丁やはさみ、セラミックスエンジンなどをご覧になったが、「セラミックス製のものは、普通の金属のものに比べてどのように違うのか」「ずいぶん便利になったね」と、感想を述べられた。

また、「天皇口止め事件」から22年後、2度目の視察になったソニーの国分工場では、半導体、VTRカメラなどの製造工程を熱心に見学された。

特に半導体では、ご自身で顕微鏡をのぞきこまれて精度を確かめられるなど、並々ならぬ関心を示された。

白衣姿でICの組み立て工程などをご覧になる昭和天皇のお姿がしばしば新聞紙上などに登場したのもこの時期である。

いかにも気さくに手を挙げてあいさつをされる天皇の姿は時にはほほえましくすらあったが、常に人間的な魅力に包まれておられた。

石油危機を乗り越え、ハイテク立国化に成功した日本経済は、再び大きな曲がり角に立たされている。

ハイテク立国を支えてきた優秀な技術革新力は一方で海外への集中豪雨的な輸出につながり、海外との間で深刻な貿易摩擦を引き起こしている。

円高、経済構造調整などの難問を解決し、途上国援助などを通じて世界経済に貢献する道を早急に確立すること。

それが、国際国家・日本として「昭和」の次にくる新しい時代「平成」のスタート台に立つための必要な条件になっている。