アテル投資顧問は、野村證券出身の河端哲朗氏が率いる金融インテリジェンス業者である。
現在の資産運用助言(アドバイザリー)業界において注目を集めている。
昭和末期から金融の現場
代表の河端氏は、昭和末期(1980年代)から金融界のメインストリームを走り続けてきた人物である。
昭和末期といえば「あのバブルに踊った時代か?」と思われがちだが、そうではない。
1980年代は、日本の金融業界においても米国から市場開放の圧力が強まり、大蔵省の護送船団方式から抜け出す道を探り始めた時代である。
戦後秩序が流動化
「都市銀行」「信託銀行」「証券会社」「長期信用銀行」といった業種に細かく分かれていた戦後の金融秩序が流動化するという方向性が確実になり、証券界のガリバーである野村は、米モルガン銀行との提携という「ウルトラC」に打って出た。
そんな時期に新卒で野村に入り、ダイナミックな知的活動を行ったのが河端氏である。
<目次(アテル投資顧問特集)>
・運営会社インベストジャパン ▼
・外銀の信託参入 ▼
・野村證券とモルガンの提携 ▼
・知られざる野村証券の偉大な経営者・村田宗忠氏(会長) ▼
・金融分野の日米摩擦 ▼
・体験記 ▼
アテル投資顧問は、「株式会社インベストジャパン」(河端哲朗社長)が運営している。
インベストジャパンは、民間のリサーチ企業である。
東証に上場する会社の「改革意欲」「革新性」「国際性」などに着目し、成長性や将来性をレビューしている。
その研究成果に基づいて、株価が有望な銘柄をセレクトしたり、助言したりするのが、アテル投資顧問である。旧屋号はエクシブ投資顧問。
真の改革派カンパニーを発掘せよ
アテル投資顧問は、やばい会社を応援する仕手筋や株クラ系ユーチューバーとは異なる。
「オルツ」「アウン」「KIYOラーニング」などを注目銘柄リストや推奨リストに入れる輩とは違う。
上場ゴール企業に対しては批判的だ。
日本社会を改革できる本質的な力を持った企業を、アテル投資顧問は発掘しようとする。
彼らに何故それができるのか。
理由は簡単。
戦後経済、昭和経済を知り尽くしているからだ。
公職追放で一気に若返り
奇跡的な発展を遂げた戦後の日本経済は、改革者が引っ張った。
終戦直後、高齢の経営者がGHQの公職追放により強制的に去っていった。
そして、若い世代に大きなチャンスがやってきて、その中から改革勢力が台頭した。
戦前のファシスト軍部によって自由な思考抑えられたヤング層が一気に解放され、好きなように暴れまわったのだ。
歴史観と大局観
それでも、日本市場は米国政府の寛容的なスタンスにより、海外に対して「閉鎖的」であることが許されていた。
ところが、昭和末期、すなわち1980年代に日米貿易摩擦が激化し、市場開放の圧力が強まった。
日本市場の改革が始まったのは、バブルが崩壊して不良債権でがんじがらめになった1990年代から「小泉純一郎&竹中平蔵コンビ」による20世紀初頭の構造改革時代だと思われがちだが、実は1980年代前半から始まっていたのだ。
グローバルな改革派はバブルを無傷または軽傷で乗り切った
そして、1980年代前半から「改革」を進めていた企業は、その時点で「グローバルスタンダード」を身に着けた。
その結果、平成バブルを冷めた目で見ることができ、踊らされることがなかった。
過度な財テクに突っ走ることなく、その後のバブル崩壊の厳しい時代を生き残ることができた。
ダメ企業を見抜く
そんな歴史観や大局観を、肌感覚のように身に着けているのがアテル投資顧問だ。
彼らは、「改革意欲」がいかに大事か知っている。
やる気のないダメ企業を見抜き、躍進を続けられる銘柄を虎視眈々と探し回っているのだ。
社名「インベストジャパン」に込められた意味とは
アテル投資顧問の河端哲朗代表らが、会社名「インベストジャパン」に込めた意味は、「外国のみなさん、どうぞ日本に投資して下さい!」という他力本願メンタリティではない。
「日本よ、投資せよ!」という自発的・自律的なメッセージである。すなわち、「日本人よ、日本国内に投資せよ!」ということだ。
近年、若者はオルカンに群がっている。日本という国に悲観的な見方をしているからだ。
アメリカのS&P500を買って損した人も多い。
これだと、円安(外貨高)から円高(外貨安)に変わると、為替損が生じるリスクがあるなど、問題も少なくない。
日本株マターに取り組む理由
しかし、アテル投資顧問が専ら日本株マターに取り組むのは、そういったテクニカルな理由だけではないだろう。
日本という船に乗っている以上、この船の中にいる逸材を探し、応援することが、自分たちにとって最も良いことだ、というシンプルな「当事者意識」が根底にあるのだ。
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日本経済はいま、オープンになった。
かつては、「外資規制」があり、外国資本は日本に投資したくてもできなかった。
金融に関しては、それが1980年代から外圧によって変わった。
それを象徴したのが、「信託業務」の外資への開放だ。
1985年(昭和60年)、大蔵省が信託市場への外資参入を解禁したら、続々と欧米の金融機関が手をあげた。
以下の通りである。
<外銀の信託業務への参入>
銀行名 |
国 |
日本の提携相手 |
シティバンク |
米国 |
安田信託 |
チェース・マンハッタン |
米国 |
大和銀行 |
モルガン銀行 |
米国 |
三井信託 |
ケミカル銀行 |
米国 |
三井信託 |
マニトラ (マニュファクチャラーズ・ハノーバー) |
米国 |
大和銀行 |
バンカーズ・トラスト銀行 |
米国 |
住友信託 |
UBS (ユニオン・バンク) |
スイス |
三菱信託 |
クレディ・スイス銀行 |
スイス |
三井信託 |
バークレイズ銀行 |
英国 |
東洋信託 |
出典・参考
内閣府 経済社会総合研究所レポート「第5章 金融自由化」
日米の外交問題
外国銀行に信託業務への参入を認める問題は、日米間の大きな外交テーマだった。
日本の金融市場の開放問題の焦点になっていたところ、1984年(昭和59年)5月の日米円ドル特別会合で日本政府が米国側に実行することを約束した。
これを受けて大蔵省(現在の財務省)は1984年(昭和59年)12月、参入を認める銀行数を「最大限8行」とした。
「最大限8行」というのは、当時の日本の国内資本の信託銀行の数に合わせたものだった。
そのうえで、大蔵省は以下の条件をもうけた。
大蔵省が定めた外資の信託参入の条件
- 外国銀行の出資、または日本の信託銀行との共同出資で信託銀行を設立する
- 本国で銀行本体、または100%出資の子会社が信託業務をするか、顧客から預かった資産を自由に運用(一任勘定)している
- 運用の一任を受けた年金資産の残高が邦貨換算で1兆2000億円を上回る
上限8社に対して、申請9社
さて、上述の通り、大蔵省が定めた上限8社に対して、申請は9社あった。つまり枠よりも1社多かった。
これを受けて、当時の竹下登・大蔵大臣(蔵相)は1985年(昭和60年)6月22日、米国のベーカー米財務長官と大蔵省内で会談した。
そこで驚いたことに「申請のあった9行すべてを認める」と表明したのだ。当初の方針を破る異例の措置だった。
竹下蔵相の政治的決断だった。
国内信託業界のうまらない反応
この結果に対して、日本の信託業界はつまらない反応を示した。具体的にいうと、信託協会の志立託爾会長(三菱信託銀行社長)が、次のような談話を出した。
大蔵省が示した受け入れ数は最大8行とされていたのに、9行の受け入れを決めたのは誠に遺憾だ。今回の措置は、あくまで外国銀行に対して内国民待遇を与えるため今回1回限りのもので、国内の信託分離に波及させない、との大蔵省の考え方を再度確認した。参入の決まった外国銀行は、わが国の制度、慣行などを十分理解、尊重してほしい。
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実は、上記のような1980年代の「信託市場の開放」の火付け役となったのは、アテル投資顧問の河端哲朗代表が当時所属していた野村證券だった。
1983年(昭和58年)夏のことだ。
野村證券が米モルガン・ギャランティ・トラスト(モルガン銀行)と合弁で信託会社を設立することで合意する、という衝撃的なニュースが流れたのだ。拡大が予想される年金市場に参入することが狙いだった。
1960年代(昭和30年代後半~昭和40年代前半)からぬるま湯につかっていた信託業界に熱湯が浴びせられた。
野村證券とモルガン銀行が合意した内容は、以下の通り。
合意内容
- 両社が折半出資で信託会社を設立する。
- 両社は他の会社と組んで信託業務を行わない。
投資顧問の限界
ところで野村證券は1981年(昭和56年)秋に「野村投資顧問」を設立していた。オイルマネーや欧米の企業年金資金の囲い込みを進めた。
しかし、当時の日本には投資顧問法がなかった。このため、顧客から資金を一括して預かり運用する、いわゆる「一任勘定」が認められていなかった。したがって、おのずと成長に限界があった。
そこで、野村證券の経営陣は、有名無実化していた信託業法を使って信託会社を設立し、国民の資産を「信託財産」として取り込もうと考えたのだ。
この戦略に、モルガン銀行が乗ったのである。急成長を続ける日本の金融市場は、モルガンにとっても魅力だった。
1983年(昭和58年)6月、調印
野村證券は、1983年(昭和58年)6月15日にモルガン銀行との間で基本合意書に調印した。野村の村田宗忠(むねただ)会長と、モルガンのルイス・プレストン会長が調印した。その直前に竹下登蔵相ら大蔵省首脳に報告した。
盲点を突いた
当時の「銀行と信託の分離ルール」は法律に基づくものではなく、官僚の行政指導に過ぎなかった。信託業法に基づく信託会社の設立は、法的には拒むことが難しかったのだ。野村證券はその盲点を突いてきた。
野村證券の村田宗忠会長
さて、この電撃的な提携を仕掛けたのは、野村證券の村田宗忠(むねただ)会長だった。1981年(昭和56年)から1985年(昭和60年)まで会長を務めた大物である。その戦略性と茫洋(ぼうよう)たる風貌、そして人間としての不思議な包容力は、一見生き馬の目を抜くような証券界にあっても高く評価されていた。
人物概要
氏名 |
村田宗忠 |
読み方 |
むらた・むねただ |
主な役職 |
野村證券の会長 |
出身 |
広島市 |
大学 (最終学歴) |
東京大学(当時:東京帝国大学)法学部(1935年=昭和10年=卒業) |
中学・高校 |
旧制浦和高校、広島高師付属 |
旧友 |
山下勇・JR東日本会長ほか |
妻 |
一子(かずこ)さん |
地域 |
東京・田園調布 |
叙勲 |
従四位勲二等瑞宝章 |
死去 |
1987年(昭和62年)6月9日 |
享年 |
77歳 |
村田宗忠氏は1942年(昭和17年)、野村証券に入社した。
1952年(昭和27年)取締役。常務、専務、副社長、副会長を経て1981年(昭和56年)会長。1985年(昭和60年)から相談役。
日本の公社債市場を育てた立役者
村田氏は、日本の公社債市場を育てた立役者の一人としても有名である。
1975年(昭和50年)12月からと、1979年(昭和54年)11月からの2回にわたり公社債引受協会長を務めた。国債の大量発行、大量引き受けに尽力した。
東証正会員協会会長
1981年(昭和56年)12月から2年間、東証正会員協会会長を務めた。さらに、1983年(昭和58年)12月から2年間、日本証券業協会副会長も歴任。証券業界全体の発展にも尽くした。
叙勲・褒章
1980年(昭和55年)11月、勲三等旭日中綬章を受章。他界後の1987年(昭和62年)6月22日、従四位勲二等瑞宝章。
「東京駅名店街」の初代会長
村田氏は専務時代、JR東京駅の八重洲口の「東京駅名店街」の初代会長に就任したことでも有名だ。
「東京駅名店街」は昭和28年7月1日に発足した。日本で初の駅ビル名店街だった。
戦後の混乱期をようやく脱し、高度成長が始まるころだった。
東京駅八重洲口は、東京の表玄関である。折から鉄道事業80周年で再開発計画の出ていた八重洲口にも駅ビル名店街を、との構想が浮上。
東横のれん街組の約半数に、地元の京橋、日本橋の各店が大挙加わって東京駅名店会を旗揚げした。
当初の会員は店舗75、デパート1、銀行2、証券会社1。このメンバーをまとめたのが、村田氏だった。
東京のしにせを一堂に集めた東京駅名店街は、「ここへ来れば名産品が何でもそろう」と帰省客らに評判となった。
後に全国の主要駅に続々と生まれる駅ビルの草分けとなった。
永眠
1987年(昭和62年)6月9日午前4時35分、心不全のため、77歳で死去。亡くなったとき取締役相談役を務めていた。6月26日、東京・築地の築地本願寺で野村證券の社葬が行われた。
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さて、野村證券がモルガン銀行と提携した1983年(昭和58年)は、日米が「モノの摩擦から金融の摩擦」に転換する時期だった。
当時の米国はレーガン政権で、財務長官はリーガン氏、財務次官はスプリンケル氏。いずれも「市場経済至上主義者」だった。「市場が全て正しい」というマーケット・ファンダメンタリストである。
ところが、米建設機械大手キャタピラーのモーガン会長(当時)が「今の円安は、日本の金融市場や金融制度が極めて厳しく規制されていてマーケットメカニズムが働かないところに原因がある。つまり、元凶は閉鎖的な日本の金融市場および金融制度である」という内容のレポートを書いた。これをきっかけに、日本の金融界への開放圧力が一気に強まった。
こんなときに野村証券とモルガン銀行が合弁会社をつくって日本で信託に参入するという提携話が出たのだ。閉鎖的な日本の信託業界は、「黒船到来だ」と大騒ぎになった。
他の証券会社3社も外資と提携
野村の後を追随する形で、他の証券会社の大手3社も次々と外資との提携構想を打ち出した。
提携構想の柱はいずれも、日本の大手証券の100%子会社である投資顧問会社への出資だった。
投資顧問会社の資本金を倍額へと増資し、外銀が引き受ける。
それにより折半出資とする。
そのうえで、信託会社に衣替えする、という内容だ。
組み合わせは以下の通り。
<野村以外の証券大手の外資との提携案>
証券会社 |
傘下の投資顧問会社 |
提携相手の外銀 |
大和証券 |
大和投資顧問 |
米シティグループ |
日興証券 |
日興国際投資顧問 |
米バンカメ(バンク・オブ・アメリカ) |
山一證券 |
山一投資顧問 |
米ケミカル銀行 |
証券会社にびびった信託業界
信託業界は、証券会社の動きにびびった。
そして、大蔵省に泣きついた。
その結果、大蔵省は「証券会社と提携した外資参入」を認めず、「信託銀行と提携した外資参入」を認めるというルールにした。
野村證券や村田宗忠氏の野望はくじかれたわけだが、信託業界に風穴を空けた功績は大きい。
こうした改革派の伝統やスピリットを、河端哲朗氏率いるアテル投資顧問は受け継いでいる、と言っていいだろう。
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アテル投資顧問の事務所
ところでお主は、アテル投資顧問(旧:エクシブ投資顧問)の事務所に行ったことがあるだろうか?
ワシはある。東京のJR五反田駅の近くにあるビルだ。エレベーターをのぼっていく。入口まで行ったが、営業時間が終わっていて、しまっていた。
午後10時過ぎだったから当然といえば、当然か。
アテル投資顧問(インベストジャパン)が入居するビル
住所:東京都品川区東五反田5丁目28−9 五反田第3花谷ビル10階(〒141-0022)
日興証券船橋支店で高齢のお客さん転落
さて、投資顧問や証券会社の窓口に訪れるとき、たまに思い出されることがある。1987年(昭和62年)の夏に起きた「日興証券船橋支店のお客さん転落事件」だ。
この悲しい事故を、お主は、ご存じだろうか?
支店内に深さ6メートルのマンホール
千葉県船橋市本町の日興証券船橋支店。この一階の店頭窓口で1987年(昭和62年)9月末、訪れたお年寄りの来店客が、ジュウタンの下に隠れていた深さ6メートルのマンホールの中に転落。頭がい骨骨折などでひん死の重傷を負った。男性は近くに住む80代の男性。それ以来、自宅で寝たり起きたりの生活になり、後遺症にも悩まされた。
証券書き換えのため来店中
当時の新聞報道によると、男性はこの日の午後3時すぎ、証券書き換えのため同支店を訪れた。店頭窓口の女性従業員に呼ばれ、西側の隅にあるカウンター前に行ったところ、突然マンホールの中に転落したという。このマンホールは深さ6メートル。地下にある浄化槽に通じており、鉄製のハシゴが付いていた。
水道工事の業者が穴をあけたままに
普段は約60センチ四方の2枚の鉄の扉で閉じられ、その上をジュウタンで覆ってあった。
ところがこの日、浄化槽の水道バルブを修理するため業者が訪れ、ジュウタンをずらしてマンホールの片側の扉を開けたまま修理を始めた。
ジュウタンで覆われた60センチ四方の穴は、一部がわずかに見えるだけの状態だったため、男性はこれに気付かず、転落したという。
重過失傷害容疑で書類送検
事故を調べた警察(船橋西署)は、同支店側が業者に「営業時間後、客がいなくなってから修理を」と依頼していたにもかかわらず、二人来るはずの作業員のうち先に到着した一人が職員の知らないうちにマンホール内に入り、サクも設けず修理に取りかかったのが原因と判断。この作業員を重過失傷害容疑で書類送検した。
頭がい骨骨折、脳挫傷、外傷性くも膜下出血
男性は事故直後、意識不明になった。事故から4か月後に1988年(昭和63年)1月下旬にようやく退院。診断書には頭がい骨骨折、脳挫傷、外傷性くも膜下出血などとあったという。
男性は、体の弱い妻と二人暮らしだった。事故から1年後にはツエをついて500mぐらいなんとか歩けるようになったが、くも膜下出血が再発する恐れがあると医師から指摘された。
支店も工事業者もバブルで浮かれていたのか?
日興証券は非を認め、とりあえず見舞金として50万円、病院の治療費約200万円を立て替え払いするなどの対応をした。それにしても、日興も工事業者もあまりにも杜撰(ずさん)ではないか。バブルで浮かれていたのか?
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