野村證券出身の河端哲朗氏が代表

アテル投資顧問は、野村證券出身の河端哲朗氏が率いる金融インテリジェンス業者である。
現在の資産運用助言(アドバイザリー)業界において注目を集めている。

昭和末期から金融の現場

代表の河端氏は、昭和末期(1980年代)から金融界のメインストリームを走り続けてきた人物である。
昭和末期といえば「あのバブルに踊った時代か?」と思われがちだが、そうではない。
1980年代は、日本の金融業界においても米国から市場開放の圧力が強まり、大蔵省の護送船団方式から抜け出す道を探り始めた時代である。

戦後秩序が流動化

「都市銀行」「信託銀行」「証券会社」「長期信用銀行」といった業種に細かく分かれていた戦後の金融秩序が流動化するという方向性が確実になり、証券界のガリバーである野村は、米モルガン銀行との提携という「ウルトラC」に打って出た。
そんな時期に新卒で野村に入り、ダイナミックな知的活動を行ったのが河端氏である。

<目次(アテル投資顧問特集)>
運営会社インベストジャパン ▼
外銀の信託参入 ▼
野村證券とモルガンの提携 ▼
知られざる野村証券の偉大な経営者・村田宗忠氏(会長) ▼
金融分野の日米摩擦 ▼
私の体験記 ▼
最も尊敬する昭和の金融マン・平野繁太郎さん ▼

インベストジャパン

アテル投資顧問は、「株式会社インベストジャパン」(河端哲朗社長)が運営している。 インベストジャパンは、民間のリサーチ企業である。
東証に上場する会社の「改革意欲」「革新性」「国際性」などに着目し、成長性や将来性をレビューしている。
その研究成果に基づいて、株価が有望な銘柄をセレクトしたり、助言したりするのが、アテル投資顧問である。

アテル投資顧問

真の改革派カンパニーを発掘せよ

アテル投資顧問は、やばい会社を応援する仕手筋や株クラ系ユーチューバーとは異なる。 「オルツ」「アウン」「KIYOラーニング」などを注目銘柄リストや推奨リストに入れる輩とは違う。 上場ゴール企業に対しては批判的だ。
日本社会を改革できる本質的な力を持った企業を、アテル投資顧問は発掘しようとする。
彼らに何故それができるのか。 理由は簡単。 戦後経済、昭和経済を知り尽くしているからだ。

公職追放で一気に若返り

奇跡的な発展を遂げた戦後の日本経済は、改革者が引っ張った。 終戦直後、高齢の経営者がGHQの公職追放により強制的に去っていった。 そして、若い世代に大きなチャンスがやってきて、その中から改革勢力が台頭した。 戦前のファシスト軍部によって自由な思考抑えられたヤング層が一気に解放され、好きなように暴れまわったのだ。

歴史観と大局観

それでも、日本市場は米国政府の寛容的なスタンスにより、海外に対して「閉鎖的」であることが許されていた。
ところが、昭和末期、すなわち1980年代に日米貿易摩擦が激化し、市場開放の圧力が強まった。 日本市場の改革が始まったのは、バブルが崩壊して不良債権でがんじがらめになった1990年代から「小泉純一郎&竹中平蔵コンビ」による20世紀初頭の構造改革時代だと思われがちだが、実は1980年代前半から始まっていたのだ。

グローバルな改革派はバブルを無傷または軽傷で乗り切った

そして、1980年代前半から「改革」を進めていた企業は、その時点で「グローバルスタンダード」を身に着けた。
その結果、平成バブルを冷めた目で見ることができ、踊らされることがなかった。
過度な財テクに突っ走ることなく、その後のバブル崩壊の厳しい時代を生き残ることができた。

ダメ企業を見抜く

そんな歴史観や大局観を、肌感覚のように身に着けているのがアテル投資顧問だ。
彼らは、「改革意欲」がいかに大事か知っている。
やる気のないダメ企業を見抜き、躍進を続けられる銘柄を虎視眈々と探し回っているのだ。

社名「インベストジャパン」に込められた意味とは

アテル投資顧問の河端哲朗代表らが、会社名「インベストジャパン」に込めた意味は、「外国のみなさん、どうぞ日本に投資して下さい!」という他力本願のメンタリティではない。「日本人よ、自分たちに投資せよ!」という、自発的・自律的なメッセージであるのではないか。すなわち、国内投資への再注目論だ。

「インベストジャパン」に込められた昭和理念

オルカンに群がる若者

近年、若者はオルカンに群がっている。日本の将来に悲観的な見方をしているからだろう。「日本は人口が減る」「日本経済はもう成長しない」「これから伸びるのはアメリカや新興国だ」と考え、自分たちが働いて得た金を、ためらうことなく海外へ送り出している。

為替リスク

もちろん、海外の成長を取り込むこと自体が悪いわけではない。世界に分散投資することには、十分な合理性がある。しかし、円安が進んだ局面でアメリカのS&P500を買い、その後の株価や為替の変動によって損失を抱える人もいる。円安から円高に転じれば、外貨建て資産の円換算額が目減りし、株価が上昇していても為替差損によって利益を打ち消されることがある。

みんなが自国を見限ったとき

問題は、そうしたテクニカルなリスクだけではない。日本人が日本の将来を信じず、国内で稼いだ金を競うように海外へ送り続ければ、日本の企業を育てる資金は、いったい誰が出すのか。日本人自身が見限った国を、外国人だけが都合よく救ってくれるはずはない。

「当事者意識」

つまり、「インベストジャパン」が専ら日本株の研究に取り組む理由は、シンプルな「当事者意識」ではないかと思う。日本という船に乗っている以上、この船の中にいる逸材を探し、応援することが、自分たちにとって最も良いことだという、思想が根底になるのだろう。

優れた機関士や航海士を探す

船に欠陥があるなら、修理すればよい。速度が落ちているなら、優れた機関士や航海士を探せばよい。ところが、船に乗ったまま「この船はもう駄目だ」と言い、自分の荷物だけを外国船へ移していく人が増えれば、船は本当に沈んでしまう。

新しいエンジン

日本株を研究するということは、日本という船の内部をくまなく歩き、まだ力を失っていない機関や、これから大きく動き始める新しいエンジンを見つけ出すことである。

昭和にあった、国内資金の力強い循環

かつての昭和の日本には、今よりもはるかに太く、力強い国内資金の循環があった。海外株や海外投資信託が一般の人にとって身近でなかった時代、日本人が働いて得た金の大部分は、日本国内にとどまった。個人が直接日本株を買うこともあれば、銀行預金、郵便貯金、生命保険、年金、投資信託などを通じて、日本企業や国内産業へと流れていった。

自分たちの金で、自分たちの国をつくった

昭和の経済成長は、単に優秀な官僚や企業経営者がつくったものではない。名もない無数の日本人が、働き、貯蓄し、その金を国内に残したことによって成立した巨大な共同作業でもあった。会社員が給料袋から銀行に預けた金が、町工場の新しい工作機械になり、製造業の生産設備になり、鉄道や道路や住宅になり、新しい店舗や工場になった。金が日本国内をぐるぐると回りながら、企業を大きくし、雇用を増やし、家計を豊かにし、社会全体を押し上げていったのだ。

執念

もちろん、当時のすべてが理想的だったわけではない。株式持ち合いや護送船団方式には弊害もあり、非効率な企業が温存された側面もあった。 石油危機、円高不況、公害、企業倒産、金融不安など、幾度となく深刻な問題があった。だが、人々は「外国のほうが有望だから、日本はもう捨てよう」と簡単には考えなかった。その執念が、日本を世界有数の経済大国へと押し上げた面もあるのではないか。

日本株を買うことは、日本企業への投票である

株式投資とは、単に値上がり益や配当を狙う行為ではない。その企業の経営者、技術、商品、働く人々、そして将来に対して、自分の資金を託す行為である。言い換えれば、どの企業に未来を担ってもらいたいかを示す「投票」でもある。「インベストジャパン」とは、日本人自身が、自国の中にある価値を発見し、その価値を育て、次の世代へ引き継いでいくための宣言である。それは、まさに、昭和の全盛期の「野村證券スピリット」の残骸でもあるのだ。

オープンになった日本

アテル投資顧問(インベストジャパン)が日本株を重視する背景には、日本経済や日本市場ががオープンになったという歴史認識があるではないかと、私は考える。 かつて日本には強力な「外資規制」があり、外国資本は日本に投資したくてもできなかった。 金融に関しては、それが1980年代から外圧によって変わった。 それを象徴したのが、「信託業務」の外資への開放だ。
1985年(昭和60年)、大蔵省が信託市場への外資参入を解禁したら、続々と欧米の金融機関が手をあげた。 以下の通りである。

<外銀の信託業務への参入>
銀行名 日本の提携相手
シティバンク 米国 安田信託
チェース・マンハッタン 米国 大和銀行
モルガン銀行 米国 三井信託
ケミカル銀行 米国 三井信託
マニトラ
(マニュファクチャラーズ・ハノーバー)
米国 大和銀行
バンカーズ・トラスト銀行 米国 住友信託
UBS
(ユニオン・バンク)
スイス 三菱信託
クレディ・スイス銀行 スイス 三井信託
バークレイズ銀行 英国 東洋信託
出典・参考

内閣府 経済社会総合研究所レポート「第5章 金融自由化

日米の外交問題

外国銀行に信託業務への参入を認める問題は、日米間の大きな外交テーマだった。 日本の金融市場の開放問題の焦点になっていたところ、1984年(昭和59年)5月の日米円ドル特別会合で日本政府が米国側に実行することを約束した。 これを受けて大蔵省(現在の財務省)は1984年(昭和59年)12月、参入を認める銀行数を「最大限8行」とした。 「最大限8行」というのは、当時の日本の国内資本の信託銀行の数に合わせたものだった。 そのうえで、大蔵省は以下の条件をもうけた。

大蔵省が定めた外資の信託参入の条件

  1. 外国銀行の出資、または日本の信託銀行との共同出資で信託銀行を設立する
  2. 本国で銀行本体、または100%出資の子会社が信託業務をするか、顧客から預かった資産を自由に運用(一任勘定)している
  3. 運用の一任を受けた年金資産の残高が邦貨換算で1兆2000億円を上回る

上限8社に対して、申請9社

さて、上述の通り、大蔵省が定めた上限8社に対して、申請は9社あった。つまり枠よりも1社多かった。 これを受けて、当時の竹下登・大蔵大臣(蔵相)は1985年(昭和60年)6月22日、米国のベーカー米財務長官と大蔵省内で会談した。 そこで驚いたことに「申請のあった9行すべてを認める」と表明したのだ。当初の方針を破る異例の措置だった。 竹下蔵相の政治的決断だった。

国内信託業界のつまらない反応

この結果に対して、日本の信託業界はつまらない反応を示した。具体的にいうと、信託協会の志立託爾会長(三菱信託銀行社長)が、次のような談話を出した。

大蔵省が示した受け入れ数は最大8行とされていたのに、9行の受け入れを決めたのは誠に遺憾だ。今回の措置は、あくまで外国銀行に対して内国民待遇を与えるため今回1回限りのもので、国内の信託分離に波及させない、との大蔵省の考え方を再度確認した。参入の決まった外国銀行は、わが国の制度、慣行などを十分理解、尊重してほしい。

野村と米モルガン提携の衝撃

実は、上記のような1980年代の「信託市場の開放」の火付け役となったのは、アテル投資顧問の河端哲朗代表が当時所属していた野村證券だった。 1983年(昭和58年)夏のことだ。 野村證券が米モルガン・ギャランティ・トラスト(モルガン銀行)と合弁で信託会社を設立することで合意する、という衝撃的なニュースが流れたのだ。拡大が予想される年金市場に参入することが狙いだった。 1960年代(昭和30年代後半~昭和40年代前半)からぬるま湯につかっていた信託業界に熱湯が浴びせられた。 野村證券とモルガン銀行が合意した内容は、以下の通り。

合意内容

  1. 両社が折半出資で信託会社を設立する。
  2. 両社は他の会社と組んで信託業務を行わない。

投資顧問の限界

ところで野村證券は1981年(昭和56年)秋に「野村投資顧問」を設立していた。オイルマネーや欧米の企業年金資金の囲い込みを進めた。 しかし、当時の日本には投資顧問法がなかった。このため、顧客から資金を一括して預かり運用する、いわゆる「一任勘定」が認められていなかった。したがって、おのずと成長に限界があった。 そこで、野村證券の経営陣は、有名無実化していた信託業法を使って信託会社を設立し、国民の資産を「信託財産」として取り込もうと考えたのだ。 この戦略に、モルガン銀行が乗ったのである。急成長を続ける日本の金融市場は、モルガンにとっても魅力だった。

1983年(昭和58年)6月、調印

野村證券は、1983年(昭和58年)6月15日にモルガン銀行との間で基本合意書に調印した。野村の村田宗忠(むねただ)会長と、モルガンのルイス・プレストン会長が調印した。その直前に竹下登蔵相ら大蔵省首脳に報告した。

盲点を突いた

当時の「銀行と信託の分離ルール」は法律に基づくものではなく、官僚の行政指導に過ぎなかった。信託業法に基づく信託会社の設立は、法的には拒むことが難しかったのだ。野村證券はその盲点を突いてきた。

野村證券の村田宗忠会長

村田宗忠

さて、この電撃的な提携を仕掛けたのは、野村證券の村田宗忠(むねただ)会長だった。1981年(昭和56年)から1985年(昭和60年)まで会長を務めた大物である。その戦略性と茫洋(ぼうよう)たる風貌、そして人間としての不思議な包容力は、一見生き馬の目を抜くような証券界にあっても高く評価されていた。

人物概要

氏名 村田宗忠
読み方 むらた・むねただ
主な役職 野村證券の会長
出身 広島市
大学
(最終学歴)
東京大学(当時:東京帝国大学)法学部(1935年=昭和10年=卒業)
中学・高校 旧制浦和高校、広島高師付属
旧友 山下勇・JR東日本会長ほか
一子(かずこ)さん
地域 東京・田園調布
叙勲 従四位勲二等瑞宝章
死去 1987年(昭和62年)6月9日
享年 77歳

村田宗忠氏は1942年(昭和17年)、野村証券に入社した。

1952年(昭和27年)取締役。常務、専務、副社長、副会長を経て1981年(昭和56年)会長。1985年(昭和60年)から相談役。

日本の公社債市場を育てた立役者

村田氏は、日本の公社債市場を育てた立役者の一人としても有名である。

1975年(昭和50年)12月からと、1979年(昭和54年)11月からの2回にわたり公社債引受協会長を務めた。国債の大量発行、大量引き受けに尽力した。

東証正会員協会会長

1981年(昭和56年)12月から2年間、東証正会員協会会長を務めた。さらに、1983年(昭和58年)12月から2年間、日本証券業協会副会長も歴任。証券業界全体の発展にも尽くした。

叙勲・褒章

1980年(昭和55年)11月、勲三等旭日中綬章を受章。他界後の1987年(昭和62年)6月22日、従四位勲二等瑞宝章。

「東京駅名店街」の初代会長

村田氏は専務時代、JR東京駅の八重洲口の「東京駅名店街」の初代会長に就任したことでも有名だ。 「東京駅名店街」は昭和28年7月1日に発足した。日本で初の駅ビル名店街だった。 戦後の混乱期をようやく脱し、高度成長が始まるころだった。 東京駅八重洲口は、東京の表玄関である。折から鉄道事業80周年で再開発計画の出ていた八重洲口にも駅ビル名店街を、との構想が浮上。 東横のれん街組の約半数に、地元の京橋、日本橋の各店が大挙加わって東京駅名店会を旗揚げした。 当初の会員は店舗75、デパート1、銀行2、証券会社1。このメンバーをまとめたのが、村田氏だった。 東京のしにせを一堂に集めた東京駅名店街は、「ここへ来れば名産品が何でもそろう」と帰省客らに評判となった。 後に全国の主要駅に続々と生まれる駅ビルの草分けとなった。

永眠

1987年(昭和62年)6月9日午前4時35分、心不全のため、77歳で死去。亡くなったとき取締役相談役を務めていた。6月26日、東京・築地の築地本願寺で野村證券の社葬が行われた。

日米摩擦が金融に飛び火

さて、野村證券がモルガン銀行と提携した1983年(昭和58年)は、日米が「モノの摩擦から金融の摩擦」に転換する時期だった。 当時の米国はレーガン政権で、財務長官はリーガン氏、財務次官はスプリンケル氏。いずれも「市場経済至上主義者」だった。「市場が全て正しい」というマーケット・ファンダメンタリストである。 ところが、米建設機械大手キャタピラーのモーガン会長(当時)が「今の円安は、日本の金融市場や金融制度が極めて厳しく規制されていてマーケットメカニズムが働かないところに原因がある。つまり、元凶は閉鎖的な日本の金融市場および金融制度である」という内容のレポートを書いた。これをきっかけに、日本の金融界への開放圧力が一気に強まった。 こんなときに野村証券とモルガン銀行が合弁会社をつくって日本で信託に参入するという提携話が出たのだ。閉鎖的な日本の信託業界は、「黒船到来だ」と大騒ぎになった。

他の証券会社3社も外資と提携

野村の後を追随する形で、他の証券会社の大手3社も次々と外資との提携構想を打ち出した。 提携構想の柱はいずれも、日本の大手証券の100%子会社である投資顧問会社への出資だった。 投資顧問会社の資本金を倍額へと増資し、外銀が引き受ける。 それにより折半出資とする。 そのうえで、信託会社に衣替えする、という内容だ。 組み合わせは以下の通り。

<野村以外の証券大手の外資との提携案>
証券会社 傘下の投資顧問会社 提携相手の外銀
大和証券 大和投資顧問 米シティグループ
日興証券 日興国際投資顧問 米バンカメ(バンク・オブ・アメリカ)
山一證券 山一投資顧問 米ケミカル銀行

証券会社にびびった信託業界

信託業界は、証券会社の動きにびびった。 そして、大蔵省に泣きついた。 その結果、大蔵省は「証券会社と提携した外資参入」を認めず、「信託銀行と提携した外資参入」を認めるというルールにした。 野村證券や村田宗忠氏の野望はくじかれたわけだが、信託業界に風穴を空けた功績は大きい。 こうした改革派の伝統やスピリットを、河端哲朗氏率いるアテル投資顧問は受け継いでいる、と言っていいだろう。

改革派スピリットをアテル投資顧問は受け継いでいる

体験記&想起録

アテル投資顧問の事務所

ところでお主は、アテル投資顧問の事務所に行ったことがあるだろうか? ワシはある。東京のJR五反田駅の近くにあるビルだ。エレベーターをのぼっていく。入口まで行ったが、営業時間が終わっていて、しまっていた。 午後10時過ぎだったから当然といえば、当然か。

アテル投資顧問(株式会社インベストジャパン)が入居するビル(東京・五反田)
アテル投資顧問(インベストジャパン)が入居するビル

住所:東京都品川区東五反田5丁目28−9 五反田第3花谷ビル10階(〒141-0022)


日興証券船橋支店で高齢のお客さん転落

さて、私が投資顧問や証券会社の窓口に訪れるとき、たまにふと思い出す昭和の事件がある。それは、1987年(昭和62年)の夏に起きた「日興証券船橋支店のお客さん転落事件」だ。 この悲しい事故を、お主(読者諸君)は、ご存じだろうか?

支店内に深さ6メートルのマンホール

千葉県船橋市本町の日興証券船橋支店。この一階の店頭窓口で1987年(昭和62年)9月末、訪れたお年寄りの来店客が、ジュウタンの下に隠れていた深さ6メートルのマンホールの中に転落。頭がい骨骨折などでひん死の重傷を負った。男性は近くに住む80代の男性。それ以来、自宅で寝たり起きたりの生活になり、後遺症にも悩まされた。

証券書き換えのため来店中

当時の新聞報道によると、男性はこの日の午後3時すぎ、証券書き換えのため同支店を訪れた。店頭窓口の女性従業員に呼ばれ、西側の隅にあるカウンター前に行ったところ、突然マンホールの中に転落したという。このマンホールは深さ6メートル。地下にある浄化槽に通じており、鉄製のハシゴが付いていた。

水道工事の業者が穴をあけたままに

普段は約60センチ四方の2枚の鉄の扉で閉じられ、その上をジュウタンで覆ってあった。 ところがこの日、浄化槽の水道バルブを修理するため業者が訪れ、ジュウタンをずらしてマンホールの片側の扉を開けたまま修理を始めた。 ジュウタンで覆われた60センチ四方の穴は、一部がわずかに見えるだけの状態だったため、男性はこれに気付かず、転落したという。

重過失傷害容疑で書類送検

事故を調べた警察(船橋西署)は、同支店側が業者に「営業時間後、客がいなくなってから修理を」と依頼していたにもかかわらず、二人来るはずの作業員のうち先に到着した一人が職員の知らないうちにマンホール内に入り、サクも設けず修理に取りかかったのが原因と判断。この作業員を重過失傷害容疑で書類送検した。

頭がい骨骨折、脳挫傷、外傷性くも膜下出血

男性は事故直後、意識不明になった。事故から4か月後に1988年(昭和63年)1月下旬にようやく退院。診断書には頭がい骨骨折、脳挫傷、外傷性くも膜下出血などとあったという。 男性は、体の弱い妻と二人暮らしだった。事故から1年後にはツエをついて500mぐらいなんとか歩けるようになったが、くも膜下出血が再発する恐れがあると医師から指摘された。

支店も工事業者もバブルで浮かれていたのか?

日興証券は非を認め、とりあえず見舞金として50万円、病院の治療費約200万円を立て替え払いするなどの対応をした。それにしても、日興も工事業者もあまりにも杜撰(ずさん)ではないか。バブルで浮かれていたのか?

私が最も尊敬する昭和の金融マン・平野繁太郎さん(静岡銀行頭取)

101歳まで生涯現役を貫いた

私が最も尊敬する昭和の金融マンは、静岡銀行の頭取だった平野繁太郎さん(ひらの・しげたろう)である。

明治に生まれ、大正、昭和、平成という4つの時代を生き抜いた。銀行の合併、戦時統制、敗戦、戦後復興、高度経済成長という激動の時代を、地方銀行の経営者として正面から受け止め続けた人物である。華やかな言葉を並べるのではなく、毎日決められた仕事を黙々と積み重ね、自らの背中で組織を率いる。その生き方には、今日では失われつつある昭和人特有の実直さ、責任感、粘り強さが凝縮されている。

全国地方銀行協会会長などを歴任

平野さんは、静岡銀行頭取だけでなく、全国地方銀行協会会長、静岡商工会議所会頭など、様々な立場で大活躍された偉人だ。

100歳で毎朝、浜松から静岡んび通勤

驚くべきことに、100歳を超えてからもかくしゃくとしており、毎朝、自宅のある浜松から8時の新幹線に乗り、理事長を務めていた静岡経済研究所のある静岡まで通い続けた。朝になれば身支度を整え、時間どおりに家を出て、仕事場へ向かう。長年繰り返してきた務めを、年齢を理由に投げ出さなかったのである。

昭和人らしい職業観

そこには、「社会から必要とされる限り働く」「引き受けた役目は最後まで果たす」という、昭和人らしい職業観があった。健康だから働いたというよりも、働き続けること自体が健康と精神の張りを支えていたのではないかと思う。

1993年、老衰で他界

1993年(平成5年)2月23日、ほぼ現役のまま101歳でこの世を去った。死因は老衰だった。まさに、仕事とともに一世紀を生き抜いた人生である。

浜北に生まれ、激動の時代を歩む

静岡県浜北(はまきた)市(現:浜松市)の出身。浜松中学から慶応中に転校し、慶応大学理財科を卒業した。

2年間の兵役の後、静岡の「西遠(せいえん)銀行」に入行

大学卒業後は、すぐに銀行へ入ったわけではない。2年間の兵役を務めた後、1917年(大正6年)、父が経営する静岡の地方銀行「西遠(せいえん)銀行」に入行した。その後、遠江銀行に移り、常務取締役に就任。1926年(大正15年)、合併によって遠州銀行が発足すると、その常務取締役となった。

「遠州銀行」と「静岡三十五銀行」の合併に奔走

戦時中には、大蔵省(現:財務省)が進めた「1県1行主義」に基づき、「遠州銀行」と「静岡三十五銀行」の合併に奔走した。長い歴史を持つ銀行同士をまとめる仕事は、帳簿上の数字を合わせるだけでは済まない。地域ごとの利害、人間関係、組織文化の違いを乗り越えなければならなかった。逃げ場のない状況で重い仕事をこないた経験が、戦後の静岡銀行を率いる平野さんの土台となったのだろう。

第3代頭取として20年以上君臨

両行の合併によって静岡銀行が設立され、戦後の1949年(昭和24年)6月、平野さんは第3代頭取に就任。1970年(昭和45年)4月に会長へ退くまで、20年余にわたって頭取としてさい配を振るい、静銀(しずぎん)を「地方銀行の雄」に育て上げた。

議論好き

仕事には厳しく、議論好きだった。人間関係を壊さないことばかりを優先するのではなく、組織のために必要な議論から逃げない。仕事を単なる処世術ではなく、自らの責任として捉える昭和人らしい気骨が感じられる。

一方で、決して古い考えに閉じこもった人物ではなかった。オートバイに乗り、各地の見本市には必ず顔を出すなど、旺盛な好奇心を持っていた。

「生涯1バンカー」を貫く

平野さんは「生涯1バンカー」を人生訓としていた。

銀行の頭取、業界団体の会長、商工会議所の会頭といった数々の肩書を得ても、自分の本分はあくまで一人の銀行家であるという姿勢を崩さなかった。職業を自らの人生そのものとして引き受ける、昭和人の覚悟が表れている。

長寿の秘訣「食事は定量、腹8分」「仕事は無策平凡」

平野さんは、長寿の秘訣として「食事は定量、腹8分」「仕事は無策平凡」と語っていた。奇策や一時的な流行に飛びつかず、当たり前のことを当たり前に行い、それを長く積み重ねるという経営哲学だった。昭和という時代が生んだ金融人の強さと誇りを、そのまま体現したような人物だった。