昭和元年(1926年) お先真っ暗の年・モガモボの時代

西暦1926年は12月24日までが大正15年、12月25日以降わずか1週間が昭和元年である。大正デモクラシーの成果としての普通選挙法は、弾圧の治安維持法と抱き合わせであった。昭和とは「明るく平和」を意味する。大正ロマンは不況と戦争へとのみ込まれて行く。

昭和2年(1927年) 金融恐慌の年・不安と享楽

取り付け騒ぎ、モラトリアム、不況。田中義一陸軍大将の組閣、第1次山東出兵と不気味な世の中になった。都市の大衆はシャンだ、イットだ、チャールストンだ、と表面、うわついた動きを示す。農村の小作争議は後を絶たない。「ボンヤリした不安」に芥川竜之介自殺。

昭和3年(1928年) 3・15事件の年・ダンス流行

第16回総選挙は初の普通選挙として行われた。政府の腹は普選許すまじ。3・15事件は共産党大検挙。「人民の名において」は不戦条約のことば、のち新憲法9条となる。テレビジョンは4半世紀後テレビとなる。ダンスは大流行し、庶民はのほほんと日を送る。ことばの(5)以下にもそれがあらわれる。

昭和4年(1929年) 緊縮の年・赤い灯青い灯

東大卒業生の3割しか就職がきまらず、映画『大学は出たけれど』が大ヒット。張作霖爆死事件をめぐって田中内閣退陣、浜口雄幸内閣は柔軟幣原外交、緊縮井上財政が2本柱。世界大恐慌のなか、『東京行進曲』は赤い灯青い灯のちまたにこだました。説教強盗つかまる。

昭和5年(1930年) 金解禁の年・エログロナンセンス

輸入超過分を金で支払う金輸出解禁、つまり金本位制を復活したが、経済混乱のため、1年で、金輸出再禁止となる。ロンドン軍縮条約に反対する右翼に狙撃された浜口首相は「男子の本懐」と叫んで倒れた。エログロナンセンス時代の到来に、東西女給戦争は、エロ路線の大阪方の勝利に帰す。ほんとに「失礼しちゃうわ」

昭和6年(1931年) 満州事変の年・のらくろ

日本の生命線「満州」に「電光石火」兵を動かして、軍部は満州事変を引き起こす。これが支那事変(日中戦争)、大東亜戦争(太平洋戦争)へと15年戦争の発端となる。漫画『のらくろ』連載はじまる。のらくろ世代は戦争被害の戦中派である。黄金バット世代とも重なる。軍国主義にぬりこめられる。「いやじゃありませんか」

昭和7年(1932年) 5・15事件の年・天国に結ぶ恋

農村救済の「時局」匡救議会、陸軍の「時局」兵備改善要綱。陸軍は満州国をつくり、上海事変へと発展する。血盟団事件に、5・15事件。「話せばわかる」「問答無用」。不況とインフレ、失業と欠食児童。「天国に結ぶ恋」の坂田山心中が、この年30件の心中を誘う。白木屋百貨店の火事が「ズロース」着用を促進する。

昭和8年(1933年) 国際連盟脱退の年・東京音頭

国際連盟で「42-1」の国際孤児になった日本の「非常時」だ。「防空演習」の騒ぎとともにナチス・ドイツへの傾斜が進む。「三原山自殺ブーム」に約1000人があの世へ。なのに「ヤートナ ソレ ヨイヨイ」の東京音頭にうつつをぬかす。「サイタサイタ」の「サクラ読本」世代は昭和ヒトケタ世代でもある。

昭和9年(1934年) 帝人事件の年・赤城の子守歌

陸軍パンフレットは高度「国防」国家をうたい、服装を「国防色」(カーキ色)一色にぬりつぶそうとする。海軍は主力艦、航空母艦などの軍縮を破棄する。「帝人事件」により斎藤実内閣から岡田啓介内閣へ、検察の動きひとつで倒閣も可能という「司法ファッショ」の世の中。「泣くなよしよし寝んねしな」。軍部は国民を眠らす。「忠犬ハチ公」の像できる。

昭和10年(1935年) 天皇機関説事件の年・喫茶店ブーム

戦前、革新とは右翼的な改革をさした。ナチス的理論をふりかざす「革新官僚」。「国体明徴」決議をした衆議院。こうして美濃部達吉の、人間天皇と国家最高機関としての天皇を区別せよとの「天皇機関説」がやり玉にあげられた。庶民は「ハイキング」を楽しみ、ブームの「喫茶店」につどった。それは街の共同応接間であり、雑談・商談の情報空間であった。

昭和11年(1936年) 2・26事件・ねぇ小唄

政党を弱体化させるための「粛正」総選挙の直後、2・26事件起こる。反乱軍兵士に対して「今からでも遅くない、原隊へ帰れ」とくりかえし放送された。この事件が粛軍へのバネではなく、戦争へのバネになったのが日本の悲劇だった。「大日本帝国」を公称し、準戦時体制へ。「ああそれなのに」「忘れちゃいやよ」の、ねぇ小唄もまた流行。

昭和12年(1937年) 支那事変(日中戦争)・馬鹿は死ななきゃ

事変の不拡大方針は陸軍の圧力で際限なく拡大の方向にはしった。「最後の関頭」は蒋介石の抵抗の決意。文部省の『国体の本義』は神国思想のテキスト。「腹切り問答」は浜田国松代議士と寺内寿一陸相の押し問答。「銃後」も「総動員」して中国侵略の道を突っ走る。浪曲の文句そのままに「馬鹿は死ななきゃ直らない」のだった。街頭で「千人針」を縫う。

昭和13年(1938年) 国民政府を相手とせずの年・買いだめ

近衛首相は「国民政府を相手とせず」(第1次声明)「東亜新秩序」(第2次声明)「善隣友好・共同防共・経済提携」(第3次声明)をとなえるが、年明けに退陣する。相手のない外交は土台無理な話。軍人が衆議院で代議士に「黙れ!」といっかつする。「灯火管制」だ。「代用品」だ。「買いだめ」だ。経済を統制すれば当然ヤミが発生する。

昭和14年(1939年) ノモンハン惨敗・トントントンカラリ

近衛内閣と交代した平沼内閣は独ソ不可侵条約の成立を前に欧州情勢は「複雑怪奇」と退陣、満州・ソ連国境ノモンハン事件にも敗れたのだった。つづく阿部内閣も「総親和」と第2次世界大戦不介入を言うばかり。あかるい「トントントンカラリ」の隣組の歌は好評だったが、国際的な隣組をつくらない外交無策の連続。

昭和15年(1940年)

「新体制」の年・あのねおっさん、わしゃかなわんよ 第2次近衛内閣は「新体制」運動をとなえる。1国1党、臣道実践、大政翼賛の精神運動であった。英語からの翻訳「バスに乗りおくれるな」が合言葉になったのは皮肉だ。「ぜいたくは敵だ」という標語が飛び出し、喜劇俳優高瀬実乗の「あのねおっさん、わしゃかなわんよ」の流行は、国民の本音にマッチしたのだろう。

昭和16年(1941年) 開戦の年・幽霊人口

「ABCD包囲陣」は米、英、中国、オランダの対日包囲態勢をいう。ついに無謀な戦争に突入する。ここにかかげた10のことばは戦争を物語るごく一端である。「米の配給」をはじめ、生活物資はとぼしくなる。「なんでも行列買い」。米や砂糖の配給をもらうため、東京では幽霊人口40万に達したというから驚く。

昭和17年(1942年) 緒戦に酔うの年・東京空襲ショック

ハワイ、マレー沖海戦をはじめ、日本国民は緒戦に酔った。しかし、昭和17年(1942年)4月「東京その他の初空襲」に大ショックを受け、6月ミッドウェー海戦に大敗して戦局は曲がり角に立った。ガダルカナル島作戦を「大本営発表」が「転進」と表現するに至って、国民は眉(まゆ)にツバをするようになった。「防空頭巾」登場。「非国民」のことばにおののき、子供を「少国民」とおだてた。

昭和18年(1943年) 学徒出陣の年・見よ東条のハゲアタマ

「撃ちてし止まむ」「玉砕」と勇ましいことを言っても、学生を根こそぎ戦場に駆り出す「学徒出陣」、女子を駆り出す「勤労挺身隊」。目につく金属製品の回収、節米パンの発明は国力が底をつきつつある何よりの証拠だった。東条首相大丈夫か、という不安が『愛国行進曲』のかえ歌「見よ東条のハゲアタマ…」に歌われた。

昭和19年(1944年) B29来襲の年・疎開エレジー

「鬼畜米英」などと言っていたが、現実には「B29」爆撃機の来襲がこわかった。主としてサイパン基地からだった。天下分け目の決戦場「天王山」はレイテ、ルソン、沖縄へと小磯首相の表現は移る。これでは天目山だ。敗色は濃い。「国民酒場」「雑炊食堂」にしばしの憩いを求める国民。沖縄の集団「疎開」児船対馬丸の沈没。特攻隊は散って行く。

昭和20年(1945年) 敗戦の年・青空市場

「ピカドン」に聖断下って終戦。敗戦といわず。占領軍を「進駐軍」と呼ぶ。「虚脱状態」にあるとき「1億総ざんげ」を求められ、わが身をつねってみる。とにかく空襲はなくなった。解放感は何ともいえずすがすがしく、女性がスカートをひるがえすのが目に楽しかった。ヤミとはいえ青空市場に元気がもどってきた。

昭和21年(1946年) 空腹の年・「あっ、そう」

天皇は「私は神ではない」と宣言。巡幸では「あっ、そう」とうなずいた。帰国した野坂参三が「愛される共産党」を語り、いずれもはやりことばになった。とにかく腹が減った。手製電気パン焼き器、たばこ手巻き器が大切な生活の小道具だった。「新円」の500円生活の苦しさにあえぎ、ちまたには「カストリ文化」や「赤線・青線」。

昭和22年(1947年) 新憲法の年・ベビーブーム

新憲法が施行され、もろもろの基本的な法律があらためられ、新しい出発の年となる。「ベビーブーム」がはじまり、これが団塊の世代として全共闘世代、ニューファミリーとして戦後の中心層を形成してゆく。「隠匿物資」に「裏口営業」。「ストリップ」に「ブギウギ」。「集団見合い」に、土日にかけて夫婦生活を送る「土曜夫人」。

昭和23年(1948年) 昭電疑獄の年・斜陽族

郵便料はじめ公共料金値上げはバイバイゲーム。インフレは荒れ狂い、その根源に復興金融金庫融資ありといわれた。さらに掘って行くと昭電疑獄があり、芦田内閣は退陣に追いやられる。太宰治の小説から「斜陽族」が生まれ、社用族、太陽族などの元祖的なことばになった。ソ連引き揚げ者が「ダモイ」「ノルマ」をもたらす。

昭和24年(1949年) 下山事件の年・ギョッ、アジャパー

平事件、下山事件、三鷹事件、松川事件など公安大事件連続の年であった。片山、芦田両内閣のあとふたたび首相の座についた吉田茂は「ワンマン」の名のもとに長期政権を保った。昭和23年(1948年)に生まれた獅子文六の小説『てんやわんや』の世の中が展開する。「ギョッ」「アジャパー」は、戦後奇語のはしり。

昭和25年(1950年) 朝鮮動乱の年・オーミステーク

朝鮮動乱と裏腹に「レッドパージ」と旧職業軍人の追放解除があった。産業界は朝鮮「特需」に息を吹き返した。アメリカは対日講和に乗り出した。アメリカへと草木もなびき「アメション」ということばも生まれた。公金3億円の浮き貸しも「つまみぐい」と片付けられ、日大ギャング事件の犯人はつかまるとき気軽に「オーミステーク」。まったく「とんでもハップン」。

昭和26年(1951年) 講和の年・リルを探してくれないか

日の丸掲揚、君が代斉唱、パチンコ屋の軍艦マーチ、警察予備隊の新設……講和を急ぐアメリカは「逆コース」を容認した。うたの世界は『上海帰りのリル』『霧の港のリル』『銀座のリル』『リルを探してくれないか』そして打ち止めは『私がリルよ』。リルとは何か。戦争の追憶か、現実逃避のあこがれか。歳末大売り出しに三越スト。

昭和27年(1952年) 血のメーデーの年・PR時代

講和・安保条約発効3日後の「血のメーデー」に「ヤンキー・ゴー・ホーム」のプラカードが林立した。菅生事件、吹田事件、大須事件などが連発した。国民総生産(GDP)は戦前水準に復帰した。昭和26年(1951年)に発足した民放ラジオ、昭和28年(1953年)にひかえたテレビ放送が「PR時代」の原動力となった。

昭和28年(1953年) バカヤロー解散の年・テレビの夜明け

吉田首相の衆院でのバカヤロー発言がもとで解散・総選挙というバカげたお芝居だった。やはり末期的症状である。発足したテレビは電気紙芝居とやじられはしたが、世相もブラウン管を意識して身づくろいするようになる。「8頭身」「君の名は」に女心は活性化する。

昭和29年(1954年) 造船疑獄の年・ヘプバーンスタイル

造船疑獄で犬養法相は指揮権発動、その直後に辞任する。事件の解明は不徹底なものになる。しかし、これが引き金となって、長い吉田ワンマン体制は崩壊の歩を早める。重苦しい政界の外で「トランジスタ」「パートタイマー」「ソーラー族」「ロマンスグレー」「ヘプバーンスタイル」と、総じて「軽文化」の世の中であった。

昭和30年(1955年) 55年体制・カカア電化

吉田ワンマンのあと待望の首相になった鳩山一郎は日ソ交渉をぶちあげて、鳩山ブームのきっかけをつかむ。これが社会党の再統一をうながし、再統一がさらに保守合同を成り立たせ、「55年体制」をつくる。「家庭電化」が進み、とくに洗濯機が主婦の最大の重労働から解放し、「カカア電化」実現。

昭和31年(1956年) もはや戦後ではない・太陽族

経済白書の「もはや戦後ではない」がそのまま流行語になった。そういつまでも戦後ではあるまい、という国民感情にマッチしたのだろう。石原慎太郎の小説『太陽の季節』が太陽族のことばをはやらせた。その野放図な反抗の気分が、ロックンロール音楽とひびき合った。太陽族に対して「戦中派」が誕生(?)する。

昭和32年(1957年) ナベ底景気の年・低音ブーム

昭和31年(1956年)の神武景気はナベ底景気へ。春闘をピークに労働運動も秋ちょう落の「低姿勢」。昭和28年(1953年)にはじまったテレビはようやく50万台、昭和30年(1955年)にはじまった電気がまは100万台。煙も見えず、味もまあまあ、に庶民は一応の満足をした。『有楽町で逢いましょう』で、低音の魅力をはじめて日本にもたらしたフランク永井がデビュー。

昭和33年(1958年) 警職法騒ぎの年・ミッチーブーム

勤務評定と道徳教育が保守・革新の争点だった。反対運動を抑圧しかかったところで出てきた警職法改正案が、旧治安維持法以上の悪法として騒ぎを起こした。そこへ民間出身の美智子さんが皇太子妃に決まり、たちどころに「ミッチーブーム」になった。岸不人気内閣への風当たりはこのブームで多少やわらげられたようだ。「フラフープ」もまたブーム。

昭和34年(1959年) 岩戸景気の年・黒のブーム

皇太子結婚、清宮の婚約発表と皇室ブーム、かまびすしい安保改定論議。経済はナベ底景気から一転岩戸景気へ。しかし、フランス映画『危険な曲り角』が大当たりして、危機迫るという感じが行きわたった。ザイラー映画『黒い稲妻』、水原弘『黒い花びら』、松本清張『黒い画集』が「黒の時代」をつくり出す。

昭和35年(1960年) 安保騒動の年・ダッコちゃん

安保反対の声もむなしく新安保条約は成立、岸信介政権は退き、所得倍増の池田勇人が組閣する。低姿勢、寛容と忍耐などおよそ池田らしくない看板が板についてしまった。三井三池闘争を平和裏に解決、石炭から石油へとエネルギーは転換する。黒人人形のダッコちゃんのウインクが、黒の時代から黄金の1960年代への転換を暗示しているようでもあった。

昭和36年(1961年) 高度成長の年・レジャーブーム

安保の政治の季節から、所得倍増の経済の季節へ。そして「レジャーブーム」。昭和35年(1960年)に500万台のテレビは、昭和36年(1961年)に1000万台へ、ラジオは1000万台を割る。「上を向いて歩こう」「いつでも夢を」「何でも見てやろう」ソ連の有人人工衛星のガガーリンは「地球は青かった」と報告した。農業基本法は「三ちゃん農業」への地ならしとなった。

昭和37年(1962年) スモッグ・日本無責任時代

世の中平穏。高度成長、「マイカー時代」。しかし「スモッグ」「交通戦争」の副作用もひしひしと市民生活をおかす。公害排出のみなもとである企業は資本主義の自由をタテに無責任論をふりかざす。植木等らの映画『日本無責任時代』が多くの観客を呼び、彼らのうたう『スーダラ節』がはやった。

昭和38年(1963年) 所得倍増幻の年・バカンス

俗耳に入りやすい池田内閣の月給倍増論のもたらしたものは、物価の上昇でもあった。実質倍増はいつ実現するのか、庶民にとっては不安であった。とはいえ、「バカンス」への夢もきざす、レジャーブームよりもっと大型な何かを感じさせたのだろうか。「カギっ子」「カワイ子ちゃん」「OL」「へんな外人」など新人種も登場。

昭和39年(1964年) 東京五輪の年・みゆき族

経済力と技術力の「東海道新幹線」が東京五輪めざして走り込んだ形だ。日本は国際通貨基金の8条国に移行し、お金持ち国の仲国入りをする。トンキン湾事件からアメリカは本格的にベトナムに介入する。「おれについてこい」「ウルトラC」の五輪のかげに、のちのフーテン族の先駆となる「みゆき族」があらわれて消えた。

昭和40年(1965年) 日韓条約の年・エレキブーム

池田低姿勢内閣をひきついだ佐藤栄作内閣は高姿勢に転じ日韓会談にけりをつけ、沖縄問題とベトナム対処に積極的に乗り出した。高度成長から安定成長に看板をぬりかえた。海のかなたではビートルズの人気が急上昇、エレキギター・ブームは日本にもおしよせた。若者の反抗心をかきたてる何ものかが、ミニスカートとともにジェット機に乗ってやってきたのだった。

昭和41年(1966年) 黒い霧の年・ミニスカート

一連の政界の不祥事をさして黒い霧という。昭和41年(1966年)年末の解散、昭和42年(1967年)正月総選挙となった。関連して「マッチポンプ」「ひとつぐらいいいじゃないか」の流行語も生まれた。「ミニスカート」が爆発的に流行した、というよりも流行させられた。女性のパンツスタイルの定着に加えて、女性解放の動き、パンストの開発という素地があった。

昭和42年(1967年) 高姿勢の年・「大怪獣」異常発生

昭和42年(1967年)初の総選挙で自民党ははじめて得票率が50%を割った。4月には「対話」の美濃部革新都政が誕生。危機感をもった佐藤首相は、高姿勢、積極外交を展開する。小笠原、沖縄の返還に前進、米軍の北爆支持を明らかにした。遠く昭和8年(1933年)のキングコングに発する怪獣がここにきてガメラなど120匹が異常発生した。ちまたには「アングラ」「フーテン」「ヒッピー」が発生。

昭和43年(1968年) 大学紛争・3億円事件

「明治100年」「昭和元禄」といいながら、学園は荒れに荒れて昭和44年(1969年)へとのめり込んで行く。大学紛争のひとつのシンボルが「ゲバ棒」であり、東大駒場のポスターに「とめてくれるなおっかさん 背中のいちょうが泣いている 男東大どこへ行く」とあった。「未来学」に「大きいことはいいことだ」。そこへ「3億円事件」の発生。

昭和44年(1969年) 沖縄選挙の年・オーモーレツ

沖縄復帰を3年後にひかえて総選挙があった。大学紛争116校のうち、65校が昭和44年(1969年)に持ち込まれ、沈静化する。新左翼勢力は四分五裂して内ゲバへ。ガソリンのCM「オーモーレツ」が黄金の1960年代のモーレツ社員の挽歌(ばんか)となった。ポップワード「あっと驚くタメゴロー」「はっぱふみふみ」「ニャロメ」などが続出。

昭和45年(1970年) 公害国会の年・ウハウハ

水俣病闘争のうらみのシンボルとしての「怨(おん)」。公害をどうしても解決しなければならないとして公害国会が開かれ、環境庁も生まれた。大阪万国博のテーマ「進歩と調和」の調和に成長のかげりを読むことができる。昭和43年(1968年)大きいことはいいことだ→昭和44年(1969年)オーモーレツ→昭和45年(1970年)ウハウハの系列。

昭和46年(1971年) ニクソンショックの年・パンツスタイル

この年最大の事件は「ドルショック」であった。ニクソン米大統領が近く中国訪問すると発表した。この2つのニクソンショックは、日本の頭越しの処置であった。ウーマンリブを元祖とする「オバアチャン・リブ」「ヒューマン・リブ」など「~リブ」が続出。パンタロン、ホットパンツなど、女性のパンツスタイルが定着した。

昭和47年(1972年)

沖縄復帰・日中復交の年・あっしにはかかわりのねえ 「列島改造論」の田中角栄内閣の登場。「決断と実行」によって「日中復交」をなしとげる。経済成長が息切れしているときの列島改造論は無理な注文であった。「若さだよ、ヤマちゃん」の呼びかけはあっても「あっしにはかかわりのねえことでござんす」とニヒルにもなる。

昭和48年(1973年) オイルショック・ぐうたら

「オイルショック」のもたらすインフレと不況、「じっと我慢の」時がきた。「せまい日本そんなに急いでどこへ行く」のユックリズムの哲学が共感を呼ぶ。小松左京の『日本沈没』がミリオンセラーになった。遠藤周作の「ぐうたらシリーズ」も売れた。

昭和49年(1974年) 金脈の年・…と日記には書いておこう

「金脈」には元もと金鉱脈の意味しかなかったが月刊『文芸春秋』の「田中角栄研究-その金脈と人脈」によって金づるという意味が加わった。金脈問題で田中首相は辞職、「青天のヘキレキ」の三木武夫内閣登場。不況に悪徳商法がはびこる。CM「……と、日記には書いておこう」--ほんとはちがうんだけどというシラケがただよう。

昭和50年(1975年) さえないクリーン・チカレタビー

ニクソンに代わった「クリーン・フォード」米大統領。それを輸入した「クリーン三木」。長島茂雄・巨人新監督の「クリーン・ベースボール」は最下位。いずれもさえなかった。有吉佐和子『複合汚染』が警鐘をかきならし、CM「チカレタビー」が、低成長時代の気分にマッチした。

昭和51年(1976年) ロッキード事件・会社主義

ロッキード事件で田中角栄前首相が逮捕された。ここにかかげた10のことばのうち6つまでがロ事件がらみだ。村上竜『限りなく透明に近いブルー』が『限りなく黒に近い灰色』に化けた。「会社の生命は永遠です」みたいなのが「会社主義」。全日空、丸紅などもロ事件がらみの企業忠誠心にいろどられる。

昭和52年(1977年) 野党連合幻の年・よっしゃよっしゃ

昭和51年(1976年)の年末のロッキード選挙で自民党は大敗、野党には連合構想が浮かぶ。社会党の江田三郎の社公民工作は、江田の離党、社民連結成に至るが、急死によって幻と化した。ロッキード事件公判の冒頭陳述で、田中角栄被告のことばとして「よっしゃよっしゃ」がのべられ、流行語となる。中年にとくに人気の「カラオケブーム」はじまる。

昭和53年(1978年) 不確実性の時代・窓際族

この先よくわからん。不確実性の時代あるいは逆転の時代。「アーウー」大平政権誕生もそのひとつ。「窓際族」の不安の中に世の中の実態がよく反映している。虚構の「ナンチャッテおじさん」騒ぎを笑ってばかりいられない。「口裂け女」が口コミによって全国の女の子に伝わる。

昭和54年(1979年) 40日抗争の年・ウサギ小屋

鉄建公団、各省庁、地方自治体、国際電電(KDD)に至るまでカラ出張、カラ勤務、ヤミ手当が明るみに出た。自民党内の対立で国会はカラカラと空転。解散、自民党大敗、自民党から2人の首相候補が立つという40日抗争。市民は目を赤くして働き、「ウサギ小屋」で暮らす。

昭和55年(1980年) ハプニング政治・それなりに

ハプニング解散、衆参両院同日選挙、大平首相の急死、鈴木善幸新内閣の誕生というハプニング政治の年だった。ところが、庶民はみんな中流意識で「それなりに」暮らしている。そこへテレビCM「それなりに」が大流行。お客さんをからかうようなCMが受け入れられるほどになった。

昭和56年(1981年) 何となく、のような年・談合列島

「何となくクリスタル」に明けた昭和56年(1981年)、「よろしいんじゃないですか」「んちゃ」「えぐい」「ぶりっ子」がはやる。東京芸大はバイオリンの鑑定書のようなもの、教授のようなものでゆらいだ。「財界」「アマチュアリズム」のことばの存在感がうすまり、『のようなもの』という映画さえできた。公共事業をめぐる政官財癒着の「談合列島」。

昭和57年(1982年) 事件風俗化の年・根暗

羽田空港日航機事故から「逆噴射」。ホテルニュージャパン火災から「横井する」、三越古代ペルシャにせ秘宝事件から「なぜだ!」というふうに事件がらみの風俗語が続出した。「ZENKO WHO?」で登場の鈴木首相は「ZENKO WHY?」で退場。タレントのタモリが「ネクラ」「ネアカ」を連発してはやらす。単純二分法のわかりやすさからか。

昭和58年(1983年) カクエイの年・おしんドローム

田中角栄元首相にふりまわされ、NHKテレビ小説「おしん」にわいた年であった。田中被告は懲役4年、追徴金5億円の1審判決、結局、田中判決選挙へと突入した。田中被告は22万票の大量得票で当選したが自民党は36議席減。粒々辛苦は「おしん家康隆の里」という成句になった。「おれは男おしん」と田中被告。

昭和59年(1984年) ロンとヤス再選・かい人21面相

「ロンよ」「ヤスよ」と言いかわすレーガン米大統領と中曽根首相がともに再選した。さまざまな日米摩擦も一応の安定軸がととのった形。そしてこの年最大の呼び物は「かい人21面相」事件などというと芸能めくが、事件の芸能化、演劇化がならいとなってしまった。いわゆる三浦和義のロサンゼルス疑惑も、テレビ、週刊誌が報道を芸能化してしまった。

昭和60年(1985年) 虚構性の時代・金妻

日航ジャンボ機墜落520人死亡、国鉄同時多発ゲリラによって首都圏国電マヒ。ハイテク社会のもろさが露呈した。テレビ朝日のやらせリンチ、豊田商事と投資ジャーナルのペーパー商法。何かリアリティーを欠く虚構性の時代だ。TBSドラマ「金曜日の妻たちへ」から「金妻」は不倫の恋の代名詞。